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王位を持たない独立国の君主の位は、princepsすなわち「侯」と見なされるのが普通である。しかし、ポーランドとボヘミアの場合は、神聖ローマ皇帝からduxすなわち部族公に任じられている。私はドイツの公について、ザクセン、フランケン、バイエルン、シュヴァーベン、ロートリンゲンの五部族の公を挙げたが、実際にはそれに東のスラヴ人たちの公も加わっていたのである。 ポーランドもボヘミアも、のちに王に昇格するので、部族公と見なされることはあまりないように思う。特に、教皇から王位を与えられて独立するポーランドは、建国時から帝国外と扱われることが多い。 なお、ポーランドのピアスト朝は、各地の分家のうち年長の者が全体の公となる体制をとり、小公国に分裂していった。まず、ボレスワフ口曲公の5人の息子により、シロンスク、マゾフシェ、ヴィエルコポルスカ、マウォポルスカ、、ポモージェの5公国が成立した。 シロンスクは長男ヴワディスワフ2世追放公が相続し、その息子の世代に上シロンスクと下シロンスクに分かれた。 上シロンスクはオポレ公とラチブシ公に分かれた。1511年ラチブシ公がオポレ公に併合され、1532年に公家が断絶。ブランデンブルク領となった。 下シロンスクからは13世紀半ばにヘンリク敬虔公が出て、ポーランド統一の目前までいくのだが、ヘンリク敬虔公は1241年にレグニツァ(リーグニッツ)でモンゴルと戦って戦死。上シロンスクも息子たちによって分裂した。これ以降ポーランドの中心はヴィエルコポルスカに移り、シロンスクはボヘミアの影響下に入ってドイツ語で「シュレジエン」と呼ばれるようになる。 上シロンスクは、ブシェグ、レグニツァ、シヴィドニツァ、ヴロツワフ、グウォグフ、ジャガン、オレシニツァの7つに分裂し、ハプスブルクの支配下に入っていった。このうちジャガンは三十年戦争の際に傭兵隊長ヴァレンシュタインが与えられたことで知られる。 マゾフシェは、次男ボレスワフ縮毛王に与えられた。この家系は2代で断絶し、その後五男のマウォポルスカ公カジミェシ2世公正公の次男コンラート・マゾヴィエツキの家系に与えられた。この家系はチェルスク、プウォツク、ワルシャワの3つに分裂したが、1495年にチェルスクのもとに統一され、1526年に断絶してポーランド王国に併合された。その後ポーランドはワルシャワを首都とするようになる。 ヴィエルコポルスカは三男ミェシコ3世老公に与えられた。この家系はポズナニとグニェズノに分裂しては統一されるを繰り返し、1295年に断絶しポーランド王国に併合された。 マウォポルスカは四男ヘンリク・サンドミェルスキに、その死後は五男カジミェシ2世公正公の長男レシェク白公に受け継がれた。この家系はレシェク白公の息子のボレスワフ知恥公の死により断絶し、マゾフシェのコンラート・マゾヴィエツキの長男クヤーヴィ公カジミェシの子レシェク黒公に受け継がれた。レシェク黒公の後は弟のウェンチツァ公ヴワディスワフ2世ウォキテクに受け継がれた。ヴワディスワフ2世ウォキテクとその息子カジミェシ3世大王はポーランド統一(とは言っても、ボヘミアの影響下に入ったシロンスク、神聖ローマ帝国内に入ったポモージェは除く)を果たした。 ポモージェは在地豪族が公となり、神聖ローマ帝国に属するようになった。ドイツ語でポンメルンと呼ばれる。ポンメルン公家は1637年断絶し、1648年のヴェストファーレン条約で、西半分が前ポンメルン公領としてスウェーデンに、東半分が後ポンメルン公領としてブランデンブルクに同君連合させられた。前ポンメルンは漸次ブランデンブルク領になり、ウィーン会議で全域がブランデンブルク領となった。 |
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